中島のケニアインタビュー!!第二回!

こんにちは!ケニアの未来インターンの中島です!前回予告したとおり、今回はケニアの未来の設立者・事業総括の橋場さんにインタビューをしました!「最近のケニアの動向」から、橋場さんがケニアの未来を立ち上げた経緯、これからのケニアの未来について語っていただきました! 中島:今回はよろしくお願いいたします。 橋場さん:はい、よろしくお願いします。 中島:ではさっそく、橋場さんは2か月半、一時帰国していらっしゃいましたが、2020年12月にまたケニアに戻りましたよね?そこで2か月半前と変わったことなどはありましたか? 橋場さん:ありました。感染者数は増えていたけれど、経済は戻ってきているように感じました。4月~7月の都市封鎖があった時はケニア全体がシーンとして、人々が家に閉じこもっていたのですが、それからは徐々に戻ってきていて、経済活動も今まで通りになってきていました。さらに、お店やバーなどもあいていて、制限はあるけどみんな遊びにいったり、外食していました。 中島:なるほど、感染者数は増えたけど人々の生活は少しづつ普通に戻ってきていたんですね。一番大変だった4月~7月ごろはどんな感じだったんですか? 橋場さん:ナイロビ(首都)とモンバサ(沿岸部にある第二の都市)で感染者数がすごく増えていました。なので、まずナイロビの都市封鎖が行われました。それが、ナイロビだけではなくて、ナイロビとナイロビの周辺地域をナイロビ首都圏として、そこから外には出られないし入ってこれないようにしていました。なので、個人営業の商売が落ち込んでた感じでしたね。 中島:あまり想像がつかないんですが、封鎖されたっていうのは例えば町と町をまたぐような場所に警察がいて検問をしているみたいなイメージでしょうか? 橋場さん:そんな感じです。本当にどうしても行き来しなければならない人達以外は通してもらえない状況でした。例えば、病院関係の人や物流を担っている人だけ通過できるライセンスをもっていて、国境のような感じで、ボーダーができていました。 中島:かなり厳しく感じますね。夜も外出禁止だったんでしょうか? 橋場さん:そうですね。それは今でもやっています。夜の外出禁止令は時間帯が変わるんですよ。今(2020年12月)は夜の10:00から朝の4:00までは出てはいけないときまっています。でも、例外もあって、例えば私がケニアに戻ってきた便は深夜につく便だったのですが、朝4:00まで空港で待ってなきゃいけないのかなと思っていたのですが、空港から出るタクシーのドライバーはライセンスを持っていたので、深夜の1時くらいに家に帰ることができました。なので、そういう特殊な仕事の人は動けるのですが、基本的には決められた時間以外は出てはいけないことになっています。夜間外出禁止令というのは、3月に感染者が初めて見つかってすぐごろからずっと施行されていて、時々時間帯が変わっています。 中島:それでは次は、子どもたちの話を聞いていきます。ケニアでは2020年3月から学校をすべて閉校したという話を聞いたのですが、一方で10月から再開していたという話も聞きました。どのような状況だったのでしょうか? 橋場さん:10月からは、小学校(プライマリースクール)の4年生と8年生と中学校(セカンダリースクール)の4年生という全国統一試験がある3学年だけに限って学校に通っていました。でも、ほかの学年の子はずっと家にいて、通学はしていませんでした。(ケニアの小学校は8年制、中学校は4年制です) 中島:全国統一試験とは何でしょうか? 橋場さん:全国統一試験はかなり重要な試験で、センター試験のようなものです。ケニア人が最も重要視していることの一つで、小学校の場合は500点満点で点数によって行ける中学校が変わります。また、中学校の場合は、ABCDEで成績を決められて、Eは落第で、Dだと大学には行けません。Cからはマイナス、フラット、プラスがあって、Aは本当になかなかとれません。ケニアって昔に比べて大学もすごく多くなっていて、だけどやはりCぐらいをとっていないとあまりよくないといわれる大学にすら行くことはできないですね。また、就職の面接の時も、ケニア人は履歴書だけじゃなくて、全国統一試験の成績証明書を持ってくるんですけど、小学校の方も持ってきます。その成績の証明書によってこの人は学力があるかないかで判断するので、とっても大事なものです。そのために、全国統一試験を受ける子たちだけは特別に再開している状況です。ケニアは近年学校の長期休暇がすごく長くて、11月と12月は2ヶ月間休みなのですが、2020年は小学4年生と小学8年生と中学4年生の子たちはクリスマスぎりぎりまで勉強していました。 中島:なるほど、ケニア人にとっては全国統一試験はそれほど重要なものなんですね。今は学校での子どもたちの話でしたが、学校以外でコロナウイルスによって青年や少年たちくらいの年齢の子たちに影響を与えたことはどういうのがありますか。 橋場さん:やはり、一番に影響を受けたのは環境がいい所に住んでいない子どもたちだと思います。例えば、ドラックが蔓延していたり、性的な虐待や犯罪が多い環境にいて、学校でしか勉強することができなかった子たちにとっては勉強する唯一の場所を奪われたことになります。また、特に全寮制の学校に通っていて、そういう環境から離れて勉強に専念することができていた子どもたちにとっても、そういう環境に戻って、いつ学校が開くか分からない中、外に出ずに閉じこもっていなければいけなかったので、影響を受けた子どもたちはすごく多かったと思います。 中島:先ほどからよくお話に出てきますが、全寮制の学校に行っている子たちってケニアでは多いんですか。 橋場さん:多いです。全寮制のほうがもともと多くて、昔は中学校に行ける子は限られていたので、みんな全寮制のところに行っていました。でも、最近はどの子でも行けるような通学制の学校が中学校もどんどん増えてきています。お金が無くても、家から通って学費もランチ代くらいのところが結構できてきています。 中島:なるほど。昔は全寮制のほうが多かったけど、お金がない子たちでも行けるように通学制の学校も増えてきているんですね。今、お話の中で家の環境があまり良くない子たちも、全寮制のところに通っている子がいるとおっしゃっていましたが、私のイメージでは全寮制に通う子はお金がある子とか、親が教育にお金を出せるような人っていうイメージがあるんですが、そういう子じゃなくても全寮制の学校に通えるんですか? 橋場さん:そういうこともありますね。たしかに寮費がかかるので普通の通学制よりは高いです。ただ、特別お金持ちの家の子ではない子たちも行っていますし、教育にお金をかけて、いい環境で勉強させたいというふうに考える親はケニアでは多いです。お金が無くても親がなんとかするか、親戚一同でお金を出し合うという例もあります。あとはやっぱり、ケニア人同士で、勉強のできる子をサポートしている例は多いですね。例えば、貧しくて学校に行けず勉強できない環境にいるけれど、すごく頭のいい子がいたとしたら、近所の人達でも学費をサポートします。なので、割と教育に関するお金の問題はそんなに大きなものではなかったりしますね。もちろん、ものすごい学費が高いとこもあるので、そういうのはほんとにお金持ちが行くんですが、そうじゃない全寮制もたくさんあると思います。 中島:日本みたいな奨学金制度ではなく、家で親戚から集めたり、近所からお金を頂いたりというほうが多いんですか? 橋場さん:奨学金制度とかもありますが、みんなが応募するので倍率が高くなり、難しいですね。なので、色んな人が個人でもサポートしています。ケニアの未来もサポートしてます。 中島:では、次は前回の内容にうつります。前回はケニアの未来をつくった経緯をお話されていたので、もう一度そのお話について詳しく聞いていきたいと思います。まず、アフリカに関わることになったきっかけはなんですか? 橋場さん:私は最初にケニアに来たのが2000年です。もともと大学で開発経済学を学んでいて、開発途上国には関心がありました。でも、あのころは、経済の指標だけで見ると、どちらかというとアジアは発展しつつあって、アフリカは取り残されていた状況でした。同時に90年代だったので、ルワンダの大虐殺やアフリカの国々で民族対立とか、紛争とか結構あったころでした。なので、そういう1番大変なところがどういうところなのかなっていう関心を学生の頃から持っていて、そこで、アフリカ地域開発市民の会(CanDo)というNPO法人でインターンをすることになりました。なので、初めてケニアに来た時から開発プロジェクトに関わっていました。旅行とかでケニアに来て文化に魅了されたとかそういう入り方ではなかったですね。 中島:今、CanDoっていう団体さんのお話がでたんですが、そこではどのようなことをされていたんですか。 橋場さん:そこでは、ケニアの中でもすごく貧しい場所で事業をしていました。ケニアには、砂漠のような乾燥・半乾燥地帯という地域があって、乾燥地帯は人が住めないようなところとか、遊牧で住んでいるようなところなんですが、そこに近い半乾燥地帯の、キトゥイのムインギ県という地域で活動していました。事業は、住民参加で学校を建てたり、人々の暮らしや今後の将来にとって大事な教育、保健の分野を住民参加で改善していました。例えば、小学校の教室の建設とか、補修、リノベーションですね。それを、日本の団体が資材を出して、全部作ってあげるのではなくて、住民が現地調達できるものを集めて作っていました。とはいえ、貧しい農村ですので、保護者にはお金はなかったので、お金がかかる建設資材は日本の団体であるCan Doが援助するという形をとっていました。でも、プロジェクトをやるうえでの決定事項は全部現地住民との話し合いで彼らが決定をしていました。保健についても、徐々にHIV感染者が増えてきていたので、HIV感染予防や基礎保健や母子保健についての研修をお母さん達に行っていました。とにかく、現地に住む住民が参加するということを大事にする事業をしていました。 中島:そこで学んだこととか現在にいかされていることはありますか? 橋場さん:地域社会の開発プロジェクト運営や考え方ですね。彼らが主体でやることが一番大切だということを学びました。それから、プロジェクトを行う時のケニア政府への手続きやビザ、銀行などのお金周りのような総務についても学びました。 中島:それを辞められて、今のケニアの未来をたちあげたということですか。 橋場さん:そうですね。最初の渡航後に留学して、JICA青年海外協力隊に行って、またちょっと別のNGOで活動して、もう1回現場でちゃんとやりたいと考えて、CanDoでケニアに戻りました。その時、CanDoで大きな事業に関わって、3年くらいケニアに駐在して一通り経験しました。その後、同じく国際協力関係の仕事を探した時に、たまたま同じケニアで少年司法関連の事業をJICAがやっていたのでそのプロジェクトに参加しました。そのプロジェクトは4年間で少年司法関連の行政機関のケニア人たちに対しての研修プログラムをつくる事業でした。CanDoの時は一般的な学校への支援だったので、特殊な子どもたちの問題をそこで初めて知りました。そのプロジェクトの時、私はケニアの児童局という、非行少年や虐待されている子、捨てられた子、孤児たちのことを広く管轄している部署の本部にいました。そこでは、ケニア人のオフィサーたちに囲まれての仕事でした。でも、子どもたちは家庭の中で虐待を受けてたり、家庭で育児放棄にあってたりして、フラフラしているうちに非行に走ってしまう子が多く、やっぱりもう1回現場に戻って、現場で子どもたちの支援をしたいと思ったので、ケニアの未来を設立しました。 中島:それでは、今は経緯のお話だったのですが、現在はケニアの未来として、どういう活動をされているんですか。 橋場さん:今この時点(2020年12月)では、JICAの保護司の事業が終わって、今はコロナウイルスの状況にもよりますが、来年(2021年)の4月以降に女児の早期妊娠予防のための事業を始める予定です。それも保護司事業を行ったところと同じ、ケニアのマチャコスの中にあるムワラという地域で、ボランティアの人達に対して、性犯罪や子どもの発達、早期妊娠の課題について包括的に学ぶ研修をして、その人たちがコミュニティでの早期妊娠の問題を予防していくことを目的に人材育成をするプロジェクトを計画してます。 中島:そういう活動を今もずっと続けていらっしゃる中で、さっきもお話に出ていましたが、どういうことを大切にしたり、気をつけて活動していらっしゃいますか。 橋場さん:まず、子どもの問題ってケニアではすごく多いです。たぶん少年司法制度に関わってくるような、捕まるほどのことをするような子やストリートチルドレンになってしまう子どもたちの問題は氷山の一角で、それよりもっと前の段階でそのような状況に陥りそうなリスクがある子はすごくいっぱいいると思っています。なので、外国人で孤児院をやっている方はいるんですが、もうちょっとケニア人でなんとかできないのって私は思っています。なので、ケニア人が子どもを守ったり、子どもに寄り添ったりして、外国人だけの支援に頼らないようにできるよう努力しています。 中島:それでは最後に、団体名の「ケニアの未来」にちなんで、橋場さんはケニアの未来、ケニア人たちの未来に対してどういう思いを持っていらっしゃるのでしょうか? 橋場さん:ケニア人たちの未来、そうですね。今は福祉の事業や一番大変な環境にいる子どもたちに対する活動をしているのですが、その事業以外でもやっぱり全体的にケニアには問題はあると思います。例えば、私がケニアでケニア人とかかわっていると、自分たちさえよければいいと考えている人が多いと感じます。もちろん日本でも、どの国でもまずは自分が大事という人は多いとは思いますが、ケニア人の間のこれだけの格差をみるとそれをさらに強く感じます。例えば、日本の高度経済成長期のような全体的に社会を底上げするような時代がケニアにはなかったので、勉強していいポジションにつけた人はそのあとは個人の利益を追求しているように見えます。今のケニアは、私が初めて来たときよりケニア人のお金持ちの数は増えて、海外に出て仕事をする人からの送金などで裕福な家庭もあります。しかし、そういう人たちはどんどん裕福になっていくのですが、彼らは、ケニア内部の社会の問題に関わって何とかしようとする人は少ないように見える。全国統一試験のようなアカデミックな部分は大切にするのに、みんなで社会を良くしていきましょうという価値の教育はどうなっているのかなという感じがします。それで結局、ケニア人と話していると「お金がないからケニアはよくならない」というお金の話になるのですが、膨大な予算がなくても人助けや社会の問題を改善しようとすることはできると思います。他にも、ケニアより不正が日常レベルで少ない海外の方が自分のパフォーマンスを発揮しやすいし、評価されやすいので、ケニアの優秀な人たちは海外に出てしまうことが多いのも問題だと思います。例えば、この間、日本に留学して現在日本で働いている若いケニア人と話したのですが、彼は優秀で公立の中学校をでたんですが、その学校のトップ20に入っていた子たちは今みんな海外にいるらしいです。ケニア人は英語ができるし、器用で適応能力が高いので優秀な人は高校まではケニアで勉強して、大学はイギリスやアメリカに出ていってしまいます。やっぱり、不正や汚職が多く、力を発揮できる機会が少ない。ここが問題だと思っています。 中島:ありがとうございます。では、先ほどはケニアに対してだったんですけど、「ケニアの未来」に対して将来的に、目標や夢はどう考えていらっしゃるのですか。 橋場さん:現在は人材育成や、コミュニティに自分たちから入っていって、コミュニティの人たちにアプローチしているのですが、やっぱり、そのコミュニティの中で居場所がない子どもたちも多いのかなって思っています。例えば、失業率が高く、仕事自体も少ないんですよね。なので、時間を持て余している青少年が多くて、彼らはコミュニティの中で仕事や居場所を見つけられず、薬物に走ってしまうこともあるので、コミュニティの中で居場所を作ってあげたいなと思います。そういう予防と同時に、薬物依存になってしまった子たちへのカウンセリングやリハビリもできればしたいです。ニーズが高いので。それから、子どもたちがスポーツや読書などの何かポジティブなことをできる場所や施設を作りたいです。さらに、さっき話した、自分たちで社会を良くしていこうという考え方ができるようになるプログラムもしたいと思っています。そういう事がもしできるのだったら、やりたいなっていうのは、夢としてあります。 今回は橋場さんにいろいろとお聞きしていきました!なかでも、橋場さんの思うこれからのケニアの未来のかたちについての話はとても面白かったです!

中島のケニアインタビュー!第一回!

こんにちは!ケニアの未来インターンの中島です!!前回予告した通り、今回、青年海外協力隊として、ケニアのチルドレンズ・リマンドホーム(児童拘置所)にて2018年から2年間活動された黒田篤槻さんにお話を聞きました!!黒田さんの「JICA海外協力隊時代の活動内容」から、黒田さんがケニアで食べたものの中で一番おいしかったものまで、いっぱいお話しいただきました! 中島:今日はよろしくお願いします。 黒田さん:お願いします。 中島:まずは、黒田さんは、JICA海外協力隊時代はどのようなことをされていたのですか? 黒田さん:私は「青少年活動」隊員として派遣されていたのですが、ケニアのチルドレンズ・リマンドホーム(児童拘置所)で非行少年や触法少年(殺人などの重い法に触れた子たち)、ストリートチルドレンに対して、教育活動をしていました。具体的には、最初の一年間は英語や裁縫を教えたり、年上の子たちに年下の子で、先生と生徒の関係を作ったりするような活動をしていました。ですが、配属先には先生役が自分しかいなかったので、そういった活動を長く続けていくには限界があると感じ、誰が先生になっても続けることができるような仕組みを作ることにしました。教科書、ノートを配属先の予算で買ってもらい、時間割を作り、子どもたちが一日に2時間程度勉強できる時間を作りました。読書するための本はちょうどJICA事務所が移転のタイミングだったので、JICA事務所から英語の本を段ボール2箱分もらってきました。他にも、配属先の外で、児童保護施設と協力してストリートでチルドレンの保護活動や啓発活動も行っていました。 中島:なるほど、施設の中だけでなく、外にも出て活動していたんですね。活動をされていた地域はどのようなところだったのですか? 黒田さん:僕が活動してたのはナイロビから7時間くらいかかる、エルドレットという街で、ケニアで4番目くらいに大きい都市でした。除虫菊やメイズ(ケニアの主要穀物)の生産が多かったと思います。マーケットが複数あって、いろんなところから人やモノが集まるところでした。基本的にはすごくにぎやかな街で首都にあるような大きいスーパーもあって、生活用品はなんでも手に入りました。標高が2100メートルと高い場所だったので、長距離ランナーの聖地としても有名で、日本人のマラソン選手も来ていました。アフリカと聞くと暑いイメージがあるかもしれませんが、標高のおかげで一年中涼しかったです。 中島:特産品もあり、大きなスーパーもあるなんて、大きくて賑やかそうですね!それでは次に、ケニアの子どもたちの生活について聞いていきたいと思います!まず、そんな街で暮らす、ストリートでの子どもたちの暮らしってどんな感じだったんですか? 黒田さん:ストリートの子たちはその名の通り、路上に住んでいます。具体的には、町のはずれにゴミが集まっている場所があって、そこでみんなでたむろしてシンナーを吸いながらしゃべったりとか、ギャンブルしたりとか、大麻を吸ったりとかいう生活をしています。そう聞くとすごく汚くて危ないように聞こえるんですけど、実は衛生面には気を使ってたりして、近くの川で週に何回か水浴びをしている様子もよく見ました。ご飯は物乞いで得たお金で買ったり、優しい大人に恵んでもらったご飯とかを食べています。あとは自分で、ちょっとした仕事をしたりして得たお金で買っています。 中島:ちょっとした仕事っていうのは、具体的にはどんな仕事をやっているんですか? 黒田さん:パーキングボーイって言って、駐車場で車を誘導したり、買い物に行っている間に車を見守ってるから、それでお金くれっていうみたいなものとか……。それから、マーケットの荷物運んだり、カフェの床とかトイレ掃除したり、ペットボトル集めて売ったりとか。中には自分でアクセサリー作って売ったりとかしている子もいたかな。女の子は売春をしている子もいるようでした。あとは、薬を売る子もいました。シンナーみたいなもの、グルーって言うんですけど。それををペットボトルに入れて売る子もいる。 中島:なるほど。 黒田さん:やっぱり、一人で生きていくのは大変なので、みんなで身を寄せ合いながら生きていってる子が多いと思います。物乞いをするときも何人かで集まってやったりとか。そういうところに一緒に座らせてもらって、お菓子を食べながら話を聞かせてもらったりしていました。 中島:路上に暮らす「子どもたち」の生活は、日本に住んでいたら想像もつかない、とても厳しいものなんですね。 中島:では、黒田さんの活動されていた児童拘置所では子どもたちはどんな生活をしていたんですか? 黒田さん:うちではね、朝6時半に起きて施設の掃除をして、8時くらいにウジっていう朝ご飯をたべて… 中島:ウジって何ですか? 黒田さん:メイズ(とうもろこし)とキャッサバの粉でつくる、ケニアのおかゆみたいなものです。 中島:おかゆが朝ご飯なんですね。 黒田さん:はい。それを食べて、そのあと、僕と一緒にみんなで勉強をして、お昼ご飯を12時過ぎくらいに食べる。お昼ご飯はギゼリっていう、トウモロコシと豆を混ぜたものです。そのあと、14時くらいからまた勉強時間ですね。日中は大体そんな感じで時々スタッフさんのお手伝いしたり、収穫を手伝ったりとか、そんな生活です。16時過ぎくらいに夕飯ですね。 中島:夕飯はどんなメニューなんですか? 黒田さん:だいたいウガリ(ケニアの主食)とキャベツかな。以前はウガリと豆だけだったんだけど、子どもたちがこれじゃ生きていけないって怒って、キャベツとウガリになりました。あと、週に1回くらいお肉が出ます。ご飯を食べたら18時くらいに寮に戻ります。でも、女の子は食器洗ったり、ダイニングの掃除してから帰るかな。そのあとは施錠されて寮で過ごすんですが、ちょっとやんちゃな子は寮の中で隠れて大麻吸ったりとか、隠し持った携帯で友達と電話したりとか、寮の天井を破って脱走を試みる子もいました。脱走した子も大勢います。一応夜間は守衛さんがつくんだけど、その守衛の目をかいくぐっていろいろしてたみたい。 中島:施設の中にいる子どもたちでも大麻を吸ったりしていたんですね。でも、今回のお話でケニアの一番つらいところにいる子どもたちの生活が何となくわかったような気がします。 中島:それでは、次は、黒田さんがケニアで感じた「一番うれしかったこと」「一番つらかったこと」「一番驚いたこと」など、いろいろ質問していきます!ではまずは、黒田さんが「ケニアで一番うれしかったこと」は何ですか? 黒田さん:そうだなあ、町で施設にいた子どもたちが「あつきー!」っていって手を振ってくれたりとか、友達の子に「あつきは僕の先生なんだよ」って紹介してくれたときとかはうれしかったですね。 中島:それはうれしいですね!じゃあ次に、「ケニアで一番楽しかったこと」は? 黒田さん:子どもたちと施設内でふざけあってるのが一番楽しかったですね。授業してるときは先生にならないといけないけど、そういうのをしてないときにしゃべりながら普通に男の子同士みたいな話をしていました。 中島:普通の男の子同士の会話ですか?どんな感じなんですか? 黒田さん:「彼女いるの?」とか「日本のこと聞かせてよ」とか(笑)やっぱり記憶に残ってるのは子どもたちと遊んでた時。あとは、ちっちゃい子たちと寝転んで一緒に歌うたってるのを動画にとったりとか。人としゃべるのはずっと楽しかったな。あ、でも、マーケットを探検するのも楽しかったな。掘り出し物が結構あって、休日はそういうのを探しに出かけましたね。 中島:日常の中に嬉しかったことや楽しかったことがあって、とっても素敵ですね!では次に「ケニアで一番驚いたこと」は何ですか? 黒田さん:驚いたこと? 中島:カルチャーショックとかですね。 黒田さん:うーん、実はあんまりなかったんですよね。学生時代、NGOの活動でインドにいっていたので、違う文化のところに飛び込むのは結構慣れていました。あ、でも、一つだけ驚いたのはね、あくびをしたら「おなかすいたの?」って聞かれるんですよね。 中島:あくびですか? 黒田さん:うん、調べてみたら、空腹もあくびの原因になるんだって。だから、気になって子どもたちに調査してみたんです。そしたら「自分があくびするときはどんな時?」って質問には「眠い時」って答えが多かったのに、「相手があくびするときはどんな時?」って質問には「おなかすいたとき」って答えが多かった。だから、みんな眠い時っていうよりはおなかすいたときにあくびをするっていう認識が強いんだって。 中島:え?すごい面白いですね。自分であくびするときは眠い時なのに、ほかの人があくびしてたらおなかすいてるって思うんですもんね。不思議~。 黒田さん:そうそう、こういう意外なところにあるちょっとした違いには驚きを感じたかな。生活の中でご飯が違うのなんて当たり前だし、スプーン使わずに食べるのなんてことも当たり前だし…。あ、でもシロアリ食べるの聞いたときは結構驚いたかも。 中島:シロアリですか!? 黒田さん:そう、桶の中にぶわーって入って売ってるの見たときは結構衝撃だったな(笑)素揚げにされててちょっと塩味なの。足とか口に残るけど、まずくはなかったよ。 中島:シロアリ、結構びっくりしたけどちょっと挑戦してみたいです…!じゃあ、「ケニアで一番困ったこと」は何ですか? 黒田さん:一番困ったことは…、シンプルに水が出ないことだね(笑) 中島:水は困りますね~。 黒田さん:そう。水道がキッチンとシャワーのふたつあったんだけど、水源が別々で、キッチンは水道からで、シャワーのほうはアパートの上のタンクからの水だった。どっちかはでるけど、どっちかはでないみたいに何とかマネジメントができてたんだけど、まれにどっちも止まっちゃうときがあって。そういう時は本当に困る。 中島:うわ~完全に水の供給なしですもんね。 黒田さん:お風呂入れないし、食器も洗えないし、だからそういうときのために水ためたりはしてたね。電気が止まるのは何とかなるんだよ、別に暗いだけだから。3日続くとちょっと困るけど…。あ、でも、シャワーは電気で沸かすんですよ、あれが使えないのはちょっと困るけど、でも、ガスは使えたからガスでお湯沸かしてお風呂入ってた。だからまあ、電気はなくてもいいけど、水がないのは困った。 中島:電気で沸かすシャワーの仕組みってどうなっているんですか? 黒田さん:ケニアのシャワーはですね、だいたい、シャワー室の外側にスイッチがあって、そこで電気をオンにしてシャワーヘッドの電源を入れて、シャワーヘッドで水をあっためます。注意しないといけなかったのは、水を出しながらシャワーヘッドのスイッチをオン/オフしないとショートしちゃうので、気を使ってました。 中島:黒田さんのいた地域は特に標高が高いので暖かいシャワーは絶対必要ですよね!! 中島:それでは、「ケニアで一番きれいだったもの」は何ですか? 黒田さん:ケニア山と海ですね。ケニア山は本当にきれいなところでした。 中島:登ったんですか? 黒田さん:登りましたよ!てっぺんまで。いくつか山頂があって、一番高いところはロッククライミングをしないと登れないので、ケニア山の歩いて登れる山頂までいって、朝日を見ました。めちゃくちゃきれいでしたね。完全にケニアで一番高いところだから、自分の影が一番高い峰に移るんだよ。しかも、ちょうど満月の日で、朝日と満月が同時に見えました。また、遮るものが何もないのでキリマンジャロ山の頂上も見えて、すごくきれいでした。 黒田さん:そうだ、あともう一つ、私の任地の近くにイテンっていう場所があって、そこからアフリカ大地溝帯を見渡すことができました。大地溝帯っていうのは、ケニアの真ん中を通ってるアフリカ大陸の割れ目のことです。本当に大きな、谷というかくぼみのようなところでしたね。活動中は、そこにたまに行ってリラックスしていましたね。 中島:近くにきれいなところがあるといいですね!いつか行ってみたいです…! 中島:それでは最後に、「ケニアで一番おいしかったもの」はなんですか? 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